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グレン・キンチー 1 [ローランド]

エディンバラのバルモラルホテルを出発し、
この蒸留所へ向かった僕らは
「1月の寒風」の洗礼を受けました。
僕らは「近代のアテネ」(訳注)を、
異なる季節や天候など色々な局面から見る機会を得ましたが、
やはり一番好きなのは夏だと白状しておきます。
その一方で、外見が氷と雪に覆われた様は
王国内の他のどの街よりも美しいことは確かです。
しかし、冬の風を忘れることはできません。
強烈な北東の風が大きな谷に吹き付けて
道を曲がる度に強襲されるというのは
あまり心地の良い記憶ではありません。


蒸留所の主席共同経営者ハナン氏、
絵描きの友人ゴードン・フレーザー君、そして筆者という
種々雑多な3人組で旅をしました。
僕らは居心地の良い馬車に乗り込みました。
リージェント通りを進み、
左手にカールトンヒルが過ぎて行き、
右手にホリールード宮殿アーサーの玉座が過ぎて行きました。
歴史的な遺構が溢れる景色と高まる期待感が混交し、
馬車の旅を楽しいものにしていました。


僕らはピアズヒル、又の名をジョックス・ロッジという、
スコットランド最高位の騎兵隊基地や
スコットランドのブライトンと呼ばれるポートベロ
そして地元民がスコットランドで最も古いバラ(自治都市)と呼ぶ、
マッセルバラなどを通過しました。


「マッセルバラはエディンバラが存在しない頃からバラであった
 そしてマッセルバラはエディンバラがなくなってもバラである」


マッセルバラを後にすると、
右手にはピンキーの古戦場(訳注2)、
左手にはエディンバラのゴルファーが集うリンクス訳注3)、
そしてスコットランド競馬の本部が見えてきます。
さらに先に行くとトラネントに到着しますが、
その左手はジョン・コープ卿ボニー・プリンス・チャーリーが戦った古戦場プレストンパス訳注4)があります。
この戦いで危うく英国の歴史の流れが変わるところでした。
これまで僕らの道のりはフォース湾を周回するものでしたが、
ここで僕らは右に折れイースト・ロジアンの内陸部に入りました。
スコットランドの農業の園と呼ばれる地域で、
ウィントン城と愛国者フレッチャー(訳注5)の子孫が住むソルトン・ヒルなどが過ぎて行きます。
フレッチャーは「私に国の歌を作らせてくれ。法律は他の奴が作ればいい」という言葉を残したことで有名です。
タインの谷に横たわる美しいペンケイトランド村を抜け、
僕らは蒸留所を見下ろす丘の頂上に至りました。
蒸留所は深く谷の中に抱かれており、
発見した時は通り過ぎる寸前でした。





訳注1

Wikipedia先生によると、
「近代のアテネ」というのはエディンバラのあだ名だそうです!




訳注2

Wikipedia先生によりますと、
「ピンキーの戦い」とは1547に発生した、
スコットランド軍とイングランド軍の戦いだそうですよ!
スコットランドとフランスの同盟を破りたいイングランドは
幼いメアリー女王エドワード6世の婚姻と
イングランド国教会による宗教改革をスコットランドに迫り、
結果として勃発したのがピンキーの戦いでした。
イングランド軍の大将は
護国卿サマセット公。
対するスコットランド軍を率いるのは
アラン伯。
ローランドの槍兵、ハイランドの弓兵など
スコットランド軍は勇敢に戦いますが、
上回る軍勢と
フォース湾に展開されたイングランド軍艦の前にあえなく敗北。





訳注3

Wikipedia先生によりますと、
19世紀には全英オープンを開催する
ローテーションに入る名門コースだったそうですが、
今は違うみたい。
ショボーン(´・ω・`)

ちなみに、現在の公式ルール上のグリーンのカップのサイズは、
こちらのコースで切っていた穴のサイズが基準になっているそうです!




訳注4

Wikipedia先生によりますと、
「プレストンパスの戦い」は1745年のジャコバイト蜂起における主要な戦闘の一つで、
ここでチャーリーはジョン・コープ卿率いる政府軍を破るんですが、
その後カローデンの戦いで惨敗しちゃうので
ショボーン(´・ω・`)・・・って話ですね。





訳注5

アンドリュー・フレッチャーさん(1653ー1716)

18世紀初頭、合同法が発効してスコットランドがイングランドに併合された頃のスコットランドの人。

14歳で英語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語に堪能だったという語学の才能の持ち主で、法律家の家系に生まれ、若い頃からスコットランド議会で活躍。農業技術の研究・改良にも熱心。一方喧嘩っ早い性格で、政敵と決闘しちゃったり、国外追放になってヨーロッパで傭兵になってみたりと頭の中が筋肉質な側面も。でも合同法に反対したスコットランドを愛するおじさん。
いろいろな肩書きがあり過ぎて、一言で説明しにくいので、バーナードがそう書いたように単に「愛国者」と呼ばれることが多いようです。


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A・バーナード
1887年刊
蒸留所探訪記
"The Whisky Distilleries of the United Kingdom"翻訳ブログ

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